決起会

2025 - 12 - 09

16時40分に起きた。

ランニングをしたのち、ゴーゴリの『鼻』を読んだ。変な話。

卒業制作の提出〆切大丈夫? と訊かれて、〆切がいつか調べてみたら、大丈夫じゃなかった。いつのまにかあと10日ほどしか残っていない。ヤバイ。ヤバイ!

紙に計画を、計画が、立たない!

ヤバイヤバイ落ち着け! まだ慌てる!

脚が痛い! ウズウズする。

卒制の実装のメインディッシュはあくまでBGMの新しいプログラムだから、リザルトや途中のストーリーシーンなどのシステムの設計は今回は飛ばして、時間の許す限りステージを肉づけしていく方針にしよう。今後の量産体制のきっかけを卒制期間のうちに掴んでおきたい。それができたら良い。

かなり大雑把だが、計画を立てれた。明日から集中期間に入ろう。今日はほとんどカチコチ固まって時間を過ごしておりました。強いていえば、洗い物を積極的にした。専業主夫としての自覚を高めていく。

永井均の『独自性類的人間』を読んでいたら、p.44で、以前僕が野球のルールのアンナチュラルさについて考えたことと通じる内容が書かれた節を見かけた。

サッカーでゴールに球を蹴り入れるのは敵の大将を殺すことの隠喩だろう。殆どの球技がこの型だが、ホームランに関しては野球もだ。

(中略)

ヒットを打つことでさえ、テニスやバドミントンや卓球と同型だろう。しかし、ベースランニングによる得点の仕組みは何だろう? 戦場の真ん中にその戦争と関連づけられた別のゲームが重ねられているようなものではないか。

(中略)

人類のように発展した異星人がいれば、サッカー型のスポーツは必ず生まれるであろうが、野球は偶然に生まれたように思われる。野球は、もしその語を使ってよいのであれば、偶然に生まれた「奇形」である。

僕が指摘したのは、ゲームメカニクスとして野球のルールを考えたとき、投手がわざわざ弾を打者の近くに投げることがマッチポンプ的で美しくないというポイントなので、永井均の着目した筋とは少し異なるが、↑の言ってることはとても共感できた。サッカーは人々の闘争欲の必然的なあらわれのように見えるけれど、野球は人工的な儀式のように見える。

明日から開発に集中する。

この間までちょくちょくやっていたルーティンが、最近手つかずになっている。物理数学の教科書とか、アメリカ産のノベルゲームとか。だいぶ前から読み始めた『ダンス・ダンス・ダンス』もまだ読み切ってない。特段ルーティンにしようと心がけていたわけではないが、これらは端的に楽しいので、少し前までは自然と進んでいた。

ここ最近はそれらをなんでやっていないのか、日記を読み返して調べてみた。そうしたら、11月6日に僕は一度気を引き締めていたことを思い出した。パートナーを泣かせてしまった日だ。それ以降、開発に割く時間がわずかに増えて、それに応じて他の趣味に傾ける時間が減っていったんだ。趣味は、エルデンリングをする時間とイラストを描く時間だけが残された。エルデンリングがでかすぎていつまでも終わらないせいかもしれませんね。

はあ。全部やりたい。今年が終わってしまうよ。今特に欲しい時間は、本を読む時間と、イラストを描く時間だ。

でも少なくとも、あと10日は我慢だ。Death the Guitarの開発のほうに力を注がせていただく。今日までよりもいっそう我慢。

じゃあもし、明日からの10日間を頑張って、卒業制作発表を乗り越えたら、それから年末までの残った期間に溜め込んでた趣味を一気に片付けることを自分に許すことにしようかな。取り急ぎエルデンリングをクリアして、それから読みさしの本を全部読み終わらせて、物理数学一周終わらせて、ノベルゲームもかたす。素敵だ。理想的な冬休みの過ごしかた。

今から楽しみ。

明日からもくもく。自分を応援する。

あらかじめ(自分に)断っておくが、これから頑張る10日間のあいだに一日だけ遊ぶ予定が入ってしまっている。これにはどうしても行く必要がある。悪しからず。