あなたのことは聞いています

2026 - 01 - 11

8時に起きた。

今日も今日とて卒業制作展。3日目。大学に行く。

今日は展示現場の監視員を担当するシフトが入っていたので、その時間帯は担当エリアをうろうろした。

大学の卒展みたいなのには「ギャラリーストーカー」と呼ばれるたぐいの客が訪ねてくることがあるらしい。作品について講釈を垂れるかたちで、ハラスメント的に学生に粘着する。そういえば以前、他の大学の文化祭に遊びに行ったとき、あるサークルの文化研究の成果展示ブースで、それっぽい光景を見たことがあった。来訪客とおぼしき中年男性が女子学生を相手に、展示内容についてあれこれと質問や講評を繰り出して、相手を長時間拘束していた。相手の学生はうんうんとかあっそうなんですね~とかえっそうなんですか~みたいな相槌を丁寧に、その中年男性に返し続けていた。

ギャラリーストーカーがいないか目を光らせてみたが、特に見つけられなかった。一部のアプリケーション作品が落ちちゃっていた以外大したトラブルもなかったので、監視の体で単に作品を鑑賞して回っていた。

この作品神だった。『BIOHAZARD7 RESIDENTEVEL』のなかで、ゲームの進行に抗って、ただの装飾オブジェクトとして散らばっている風船を一つの部屋に集め続けた行為の記録映像。それをおこなったシーンのストーリー上の位置付け自体が、「記録ディスクによる再現映像シーン」というゲーム内ゲームの状況だった(説明が難しい)のがめちゃくちゃ面白い。詩的で切なくて感動した。これの制作者、おそらく昨年イルカの作品つくってた人だ。この人の作品、人とデジタルとの関係のなかに生じる詩性を拾っていくような手つきが素晴らしいなあ。知的な快感もある。

これもよかった。水をテーマにした映像サラウンド作品。映像はサウンドに従属するかたちで、役者が狂気じみた笑い声を上げたり歩き回ったりひっくり返ったりしている光景に、色々な音が重なる。小声で何かを言った人の口の動きに合わせてカランコロンと音が鳴って、何言ってるのかぎりぎり聞き取れなかったりとかして、すごい緊張感があった。

監視のシフトが入っていない時間帯は、自分のブースで漫画を描き進めた。だんだんと凍えてきたので、hさんの展示ブースに居させてもらった。ここは閉め切られていて暖かかった。

西日で暖まりながら、一昨日のぶんの日記を書いていた。hさんに「日記に書かないことってあるの?」と訊かれた。「あるよ。なんでも書いてるわけじゃない。覚えてることなんでも書いちゃってるみたいだけど」「よくそんなに(一日にあったことを)覚えてられるよね」「覚えてることは書いてるけど、たくさん覚えているという保証はない。忘れたから書いてないこともたくさんあると思う。人と交わした会話とかも記憶してる限りでしか書けないので、細部は端折っていたり、編集しちゃってる部分とかあると思う」今もこの日記を3日後の14日に思い出しながら書いているが、記憶が不確かだ。展示と漫画執筆で忙しすぎて、書く暇がなかった。

「書くことと書かないことってどう分けてるの?」「どう分けてるんだろ……見た夢とかは内容を覚えていても特筆するものじゃなかったら書かないな。ご飯食べてご飯食べたって書くことはあるけど、シコってもシコったとは書かない。あとは、あ、以前、hさんと食堂でめちゃくちゃ話し込んだじゃん? あのときhさんから聞いたことは、結構書くかどうか迷ったよ。そのとき聞いた色々が、hさんにとってどのくらいプライベートで重大なことだったのか、ラインがよくわからなかったから。結局よくわからないなという理由で書かなかった」と言った。hさんは「もし書くとしたら何を書いてたの?」と言った。僕は指を折りながら、このことと、このことと、あのことと……と当時聞いた話題をで覚えていることを挙げていった。

今日朝は昨日までと比べて暖かかったのに、結局午後は風が強まって、凍えるほど寒かった。hさんの部屋で引き続き談笑をした。hさんの家族が来訪してきた。こんにちはと言った。「トロヤくんですね。いつも[h]から聞いてます」とお母様に言われた。

hさんの家族がhさんの作品を鑑賞しているようすを見ながら、hさんと責任や子を産むことについて話した。

以前うんちをするようなクリエイションのしかたについて考えた派生で、創作を「排泄としての創作」と「出産としての創作」というアナロジーの対立で把握して見たら面白いんじゃないかと言ってみた。「知り合いが、『子供も作らず中年になったら、やることなくなって人生暇になるぞ』と言われたらしくて。でも知り合いはそう言われたことにまったく共感しなくて、『いや漫画描くし……何歳になっても暇になることはない』って思ったんだって。その話を聞いて、クリエイションが子を成すことのある種代替になっていたりするのかもなと思ってみた。その一方で、クリエイションはうんちを出すことの代替でもあるような気がして」「それで言ったら今回の私の卒制はうんちだわ」「僕の日記もうんち。Death the Guitar開発のほうは、ある種子供を産むようになってるかも」「自分の創作物を我が子のように愛する人のことは私は理解できないんだけど、子供を産むことのような創作ってのは確かにあるかもしれない」などと話した。

hさんのお母様が飲み物をいくつか持って「どれか飲めるものがあったら飲んでください」と差し出してくれた。僕は暖かいミルクティーをもらって、hさんはコンポタの缶を受け取った。hさんは飲み口を開けて口に流し込もうとしたが、中身が固まっていて全然出てこなかった。hさんは「よく振らずに開けちゃった……」と言った。僕はその言葉が面白くて「今のって『よく』振らないで開けちゃったという意味? それとも『よく振る』をするのを忘れた状態で開けちゃったという意味? 」と訊いたら「ど、どういう意味?」と訊き返された。僕は「そういうコンポタ缶に書かれている定型句として『よく振ってからお飲みください』というのがあるじゃん。それで『よく振る』という儀式行為が単体の動詞として浮き上がっていて、今hさんはそれを利用したのだとしたら面白いなと思って」と説明を試みた。hさんは缶のラベルを一通り見て「(『よく振ってからお飲みください』とは)書いてないよ」と言った。

hさんの家族に僕の作品を紹介して、その流れで僕は自分のブースへ戻った。お客さんが遊ぶところを見ながら、漫画を描いた。

高校の友人のkが来てびっくりした。kは同い年だけど、うちの大学のOBでもある。「来てたんだ!」「ほとんどトロヤ目的で来た。でもたぶん行ってもお前いないだろうなーと思ってたから、言わなかった」信用がない。でもいないだろうなと思うのはわかるな。kは彼女のnさんと一緒に来ていた。nさんは「トロヤくん。いつも話に聞いてますー」と言った。僕は「ありがとうございます。僕もついにnに会えるとは……」と言ってしまった。nさんのことは、kからかねがね『n』と呼び捨てで彼女の伝説を聞くかたちでしか触れていなかったので、本人の前なのについ呼び捨てしてしまった。

kがDeath the Guitarを遊んでいるあいだに、僕はギャラリーの地図を持ってきて、おすすめの見るべき作品に丸印をつけた。そして去り際のkとnさんにそれを渡した。彼を見送りながら、そうか、家族だけでなく、友人を招くということもできたのかと気づいた。僕もkのグループ展示を高校の別の友達と一緒に見に行ったことがあった。僕はそのとき一緒に行った友達に「もう今日と明日しかないけど、卒展やってるからよかったら来て」とLINEをしてみた。「行けたら行く」的な返事が来た。

僕のパートナーも見に来てくれた。パートナーとhさんがエンカウントした。僕がそれぞれを紹介した。パートナーがhさんに「hさんですね! いつもトロヤくんから聞いています」と言ったら、hさんは「トロヤくんが、学校のことを家で話している……!?」と驚いていた。僕は「僕はすべて話すよ」と言った。パートナーはトイレに行った。

3日目の卒展終わり。今日もたいへん疲れた。パートナーと一緒に帰った。

大学の周りにある行ったことのないところに行こうということで、いつも通学路で前を通り過ぎていたハワイアンレストランみたいなところに寄った。天井ハワイ風の意匠が凝らされたファンが6つついていた。パートナーがそれを見て「一つだけ速い」と指摘した。本当に一つのファンだけ回転が速かった。それが面白かった。おかわり無料のフォカッチャ、美味すぎて8個食べた。

食べながら、道徳の授業について話した。中学三年生のとき、クラスで「自分の家族が亡くなったとき、家族の身体を臓器提供するか?」という議題で授業が行われたことがあった。細かな前提条件は忘れてしまったけれど、たぶん家族は臓器提供可の意志は生前に出しているものとしていたと思う。授業では、クラスの一人一人が自分の名札を、黒板に書かれた「臓器提供する(と思う)」と「臓器提供しない(と思う)」のどちらかの下に貼りつけていくシステムだった。

僕は「する」のほうに自分の名札を貼ったのだが、結果クラスの中で僕を含めて二人しか「する」に入れていなくて驚いたのを覚えている。二人以外は全員「しない」に入れていた。その後お互いの陣営による意見交換があったのだが、僕ともう一人だけで「する」側の主張を担わなければならなかったので大変だった。

小中学校でやらされる道徳の授業は道徳の構成原理についてその外側から考察してみるみたいな動きは少なく、得てしてただそれぞれの直感をぶつけ合う場になりがちなので、直感が多数と食い違いがちなアスペルガーがこのように公開処刑に遭うのはよくあることだ。僕も何度もこういう浮き方をしたことがあった。でも今回に関しては、僕はみんなも”普通に考えて”「する」のほうに入れると予想していた。僕はただ「臓器提供をすることで一人の命が助かるから、臓器提供をすることは良い」という凡庸な直感に従って「する」に入れただけだった。むしろアスペ的視点は「しない」側の主張のほうに集中して、そこでこそ面白い議論の種が見つかるんじゃないかなと思っていた。だから、その結果が真逆だったことにびっくりした。

「しない」に入れた生徒たちから出てきた意見は「家族の大事な身体だから」というのが多かった(「大事な家族の身体だから」だったっけ?)。彼らの直感には、家族の身体が大事である、身体は遺体になっても大事であり続ける、大事な身体は他者に移植されるとその価値が毀損されてしまう……などがインストールされていたのか。そんな道徳観、どこで刷り込まれたんだろう? 多数の中学三年生はそのように考えるのかな?